生物多様性とは何か (3)「産業で活かされる自然の恵み」

生物多様性とは何か (3)「産業で活かされる自然の恵み」

1. 生物多様性と産業の関係

前回までの記事では、生物多様性が私たちの日常生活と深く結びついていることを紹介しました。都市の公園や身近な農産物を通じて、生物多様性が食卓や生活環境に大きく影響していることを実感していただけたかと思います。

今回はさらに視野を広げ、世界の産業がいかに生物多様性に依存し、そこから新たな価値を生み出しているのかを探ります。実は、生物多様性は医薬品や化粧品、農業・水産業、観光(エコツーリズム)、ファッション素材など、多岐にわたる産業の基盤として活用されています。国際連合環境計画(UNEP)が主導した「TEEB(The Economics of Ecosystems and Biodiversity)」のレポートでも、自然生態系がもたらす経済価値は年数十兆円規模に上ると試算されています。例えば、昆虫による農作物の受粉効果は年間約17兆4千億円に相当し、2005年当時の世界の農業生産額の約1割にのぼると報告されています。過剰な漁獲による損失(毎年約4兆円)やサンゴ礁喪失による損失(年間1~2兆円超)なども指摘されており、こうした試算からも“自然の恵み”がいかに大きな経済的基盤を支えているかがわかります。

2. 医薬品・化粧品産業:生きた宝庫

2.1 生物由来の医薬品と創薬研究

医薬品開発において、生物多様性は文字通り「生きた宝庫」ともいえる存在です。現在使用されている医薬品の約50%は天然由来の成分に基づいており、ペニシリン(青カビ由来の抗生物質)やアスピリン(ヤナギの樹皮由来の鎮痛剤)など、多くの薬が生物資源に依存しています。代表的な生物由来の医薬品には以下のようなものがあります。

  • 抗がん剤

    パクリタキセル(太平洋イチイの木の樹皮由来)

    ビンクリスチン(ニチニチソウ由来)

  • 抗生物質

    ペニシリン(青カビ由来)

    エリスロマイシン(土壌放線菌由来)

  • 抗ウイルス剤

    アシクロビル(カリブ海産の海綿由来核酸をヒントに合成)

こうした天然資源から発見された物質が現代医薬の礎となっています。例えば抗がん剤のパクリタキセルは、北米に自生する太平洋イチイの樹皮から1960年代に見出された成分で、現在でも乳がんや卵巣がんの治療に不可欠な薬です。またビンクリスチンは、日本の庭先にも植えられるニチニチソウという植物から分離されたアルカロイドで、白血病やリンパ腫などの治療薬として広く使われています。さらに、日本企業のエーザイが開発した抗がん剤エリブリン(商品名ハラヴェン®)は、日本近海に生息するクロイソカイメン(学名 Halichondria okadai)から発見されたハリコンドリンBという希少化合物の構造をもとに合成された薬です。このように海洋生物を含む多様な生物がもたらす化合物が、創薬研究を支える貴重な源泉になっています。

2.2 化粧品・スキンケアへの応用

化粧品産業でも、生物多様性から得られる恵みが数多く活用されています。海藻エキス(保湿成分)、各種の植物油(アロエ、アルガンオイル、カモミールなど)や、深海の微生物由来の抗酸化成分など、自然由来の素材がスキンケア製品に幅広く取り入れられています。例えば資生堂は「SHISEIDO BLUE PROJECT」を立ち上げ、海洋由来成分の研究開発と海洋環境保護の両立に取り組んでいます。具体的には、世界的サーフィン団体と協働して紫外線によるサンゴへの影響を低減した日焼け止め製品の開発や、ビーチクリーン活動を推進するなど、海と肌の両方を守る取り組みを展開しています。このように企業が自然資源を製品化する際、環境への配慮を同時に進める動きが加速しています。

また、国内外の大手化粧品メーカーも、原料のトレーサビリティ(生産履歴の追跡可能性)を重視し、生物多様性保全の観点から野生植物の乱獲や生息地破壊を防ぐ仕組みを整え始めています。例えば化粧品の重要原料であるパーム油について、資生堂は2010年以降持続可能なパーム油の国際認証(RSPO)に参加し、グループで使用するパーム油相当量の認証証書の購入を進めています。これにより熱帯雨林の違法伐採や野生生物の絶滅危機につながる調達を避け、持続可能なサプライチェーンを構築しています。企業によるこうした取り組みは、消費者に安全・安心な製品を届けると同時に、生物多様性の維持にも貢献しています。

3. 農業・水産業における多様性の役割

3.1 伝統農業と遺伝的多様性

農業は、作物の遺伝的多様性が食料安全保障に直結する代表的な分野です。国連食糧農業機関(FAO)の報告によれば、現在、世界全体の食糧供給の4分の3は12種の植物と5種の動物によって支えられていると指摘されています。私たちの食生活は限られた品種に依存しがちですが、気候変動や病害・虫害に対する作物の耐性を高めるには、伝統的な在来品種や野生の近縁種など、多様な遺伝資源の保護・活用が不可欠です。

そのため世界各国で遺伝資源の保存が進められており、ノルウェーには「スヴァールバル全球種子貯蔵庫」が設置されています。ここでは各国の主要作物の種子を凍結保管し、戦争や災害など万が一の事態に備える「種の保険」として機能しています。現在、世界各地の遺伝子バンクから集められた100万種類以上の種子サンプルが貯蔵され、将来の食料危機へのセーフティネットとなっています。

また、日本各地でも古来から伝わる伝統野菜の復興と保存が進められています。例えば京都の京野菜、石川の加賀野菜、奈良の大和野菜、長野の信州野菜などは、地域独自の在来品種をブランド化することで需要を喚起し、「郷土の宝」として見直す動きが盛んです。かつて収量性などの理由で姿を消しつつあった地方品種も、「貴重な遺伝資源」として各地の行政や農家、NPOが協力して種子の保存・増殖に取り組んでいます。例えば野菜試験場OBの芦澤氏の報告によれば、1970年代後半時点で全国に1000を超える在来品種が存在し、その後も地域おこしの一環として伝統野菜の原種改良や採種が行われ、各地で栽培復活が進んでいるとのことです。伝統野菜の振興は地域の食文化や郷土経済を活性化すると同時に、多様な植物遺伝資源を未来に残すことにもつながっています。

農業分野だけでなく、近年は海の資源についても遺伝的多様性の維持が注目されています。例えば養殖業では、限られた系統の魚だけを増やすのではなく、野生に近い多様な遺伝背景を持つ種苗を活用する取り組みが模索されています。日本沿岸で古くから続く海藻(海苔・昆布など)の養殖や里海の管理も、海洋生態系と食文化を守る上で重要な役割を果たしており、地域の知恵が活かされています。

3.2 水産資源と生態系保全

水産業において、サンゴ礁や海草藻場(海藻の繁茂する浅場)は稚魚の“ゆりかご”として機能し、持続可能な漁業の基盤となります。実際、南の海のサンゴ礁や沿岸の藻場は魚の産卵場・育成場であり、そこが健全であればこそ成魚の漁獲量も維持されます。豊かなサンゴ礁は地元漁業者にとっても大切な稚魚のゆりかごであり、例えば沖縄県恩納村では漁協主体でサンゴの養殖・移植を行い、サンゴ礁生態系を再生する取り組み(チーム美らサンゴ)が進められています。

各国で海洋保護区や禁漁区を適切に設定することで、生物多様性を保ちながら漁獲量を安定させる仕組みも注目されています。フィジーでは、伝統的なタブー(tabu)の考え方を活用し、地域コミュニティが自主的に沿岸海域の一部を無採捕(ノーテイク)区域に定め、一時的に漁を禁じる取り組みが広がっています。これは昔からの知恵で「資源に休む時間を与える」ものであり、禁漁期間を設けることで魚や貝の個体数が回復し、長期的に見ると漁獲も増えるという効果が報告されています。実際、フィジーでは2010年代に466か所以上のコミュニティ管理型海洋保護区(LMMA)が設立され、生態系の再生と地域収入の向上という両面で成果を上げています。さらに、こうした保護区はエコツーリズムの場ともなり、ダイビング客を呼び込むことで地域に新たな収入源をもたらす好循環も生まれています。

また、MSC認証(海洋管理協議会認証)のように、持続可能な漁業で獲られた水産物にエコラベルを付与する国際認証制度も普及しつつあります。MSC認証を取得する漁業は日本でも徐々に増えており、国内では2024年2月時点で12件の漁業がMSC認証を取得しています。認証水産物を取り扱う流通・加工業者も増加し、MSCのCoC認証取得事業者は日本国内で300社を超えました。スーパーや外食チェーンでもMSCラベル付きの水産物が目に入る機会が増えており、2022年度には日本国内で700品目以上のMSC認証製品が流通したとのデータもあります。こうした消費者が選べる仕組みを通じて、乱獲をしない漁業や海のエコラベルが一般に浸透しつつあります。

4. エコツーリズムと地域ブランド

エコツーリズムとは、生物多様性を地域の観光資源として活用し、自然保護と地域経済の活性化を同時に図る取り組みです。世界でも代表的な事例として、コスタリカは国土の約26%を国立公園などの保護区に指定し、多様な生態系を観光客に体験させることでGDPの約5%を観光収入から得ています。このモデルケースでは、観光業が自然保護の原資ともなり、保全された自然がさらに観光価値を生むという好循環が実現しています。

4.1 世界のエコツーリズム事例

  • コスタリカ
    世界有数の生物多様性を誇る中米の小国です。環境先進国として1970年代以降に積極的な森林保全策を打ち出し、現在では国土の約1/4が保護区となっています。エコツーリズムは主要産業の一つで、熱帯雨林や火山、雲霧林からビーチまで12の生態系を体験できることが売りです。観光収入は2019年時点で約34億ドル(約5%のGDP)に達し、その一部が国立公園の維持管理や地域住民への還元に充てられています。「環境を壊さずに稼ぐ」道を選んだコスタリカは、今やエコツーリズム先進国として国際的にも評価されています。

  • ケニア・タンザニアのサファリツアー
    アフリカ東部のサバンナ地帯では、野生動物を観光資源としたサファリ産業が盛んです。ケニアやタンザニアにはマサイマラ国立保護区やセレンゲティ国立公園など広大な保護区があり、ライオンやゾウ、キリンといったビッグファイブをはじめ数多くの野生動物が生息しています。これら保護区では入園料収入や宿泊施設での収益の一部が地域社会に還元され、また地元の若者がレンジャー(密猟監視員)やガイドとして雇用されることで、住民が野生生物保護に主体的に関わる仕組みが作られています。例えばケニアでは、マサイ族など地元コミュニティが自ら土地を野生生物保護のために提供し、コミュニティ保護区(Conservancy)を運営する例も増えています。観光から得られる収入が地域に利益をもたらすことで、住民にとって「野生動物=保護すべき価値」という意識が育まれ、結果として自然保護と経済発展の好循環が生まれているのです。

4.2 日本の取り組み

  • 屋久島の森林トレッキング
    世界自然遺産に登録されている鹿児島県の屋久島は、縄文杉に代表される原生林のトレッキングが人気です。観光客の急増による環境負荷を抑えるため、屋久島町などは入山者数のモニタリングやガイド資格制度の整備を行い、計画的な受け入れに努めています。特に縄文杉ルートでは、山岳部の限られた山小屋やトイレが過密にならないよう利用状況の事前申告制を試行するなど、過剰利用の抑制に取り組んでいます。また公認ガイドによる自然解説を通じて、訪問者が森の生態系や文化的価値を理解しながら歩けるよう工夫されています。これにより、島の豊かな生態系を守りつつ観光収入も地域に落とす持続可能な仕組みづくりが進んでいます。

  • 知床半島の生態系体験ツアー
    北海道の知床半島も世界自然遺産であり、ヒグマやオジロワシなど大型野生生物の宝庫です。ここでは地元NPOや行政、公認ガイドが連携し、エコツアーを通じて生態系の魅力を発信すると同時に、ヒグマとの共存ルールや利用マナーの啓発を行っています。例えば知床五湖の遊歩道では、ヒグマ出没期にガイド同行を義務づけたり、一日の入園者数を制限したりといった措置が取られています。また、ホエールウォッチングや川下りツアーなど多様なプログラムを提供し、季節を通じた観光誘致で地域経済を支えています。知床では観光業者と漁業者が協定を結び、観光船の航行範囲や接近距離を定めて生態系への影響を最小化する取り組みもなされています。こうした地域主導のルールメイキングによって、「見る観光」が自然破壊につながらないよう工夫しつつ、その地域ブランド価値を高めています。

5. アパレル産業と天然素材

ファッション業界も、生物多様性に深く依存する産業のひとつです。衣服の原料となる天然繊維の調達は農業や林業と密接に関わり、染料の確保は植物や昆虫資源に支えられています。近年はサステナブルな素材を求める動きが強まっており、原産地や生産方法の透明性が企業価値につながる時代になりつつあります。

5.1 サステナブルな繊維の利用

  • オーガニックコットン
    綿花を栽培する際に農薬や化学肥料を削減・不使用とした綿(有機栽培綿)は、土壌の微生物や在来昆虫への悪影響を抑えることができます。また生産者の健康被害や地域の水質汚染も軽減でき、労働環境の安全性向上にもつながります。大手アパレルブランドでは、H&Mが世界最大のオーガニックコットン使用企業となっており、ファーストリテイリング(ユニクロ)などもサステナブル調達方針の中でオーガニックコットンの比率を高めています。もっとも現状では世界全体のコットン生産に占めるオーガニック綿の割合は1%未満といわれ、需要に対して供給量が追いついていません。それでも一部ブランドでは「2025年までに使用する主要原料を100%サステナブル素材にする」といった目標を掲げるなど、持続可能な原料への転換が着実に進められています。

  • 再生繊維(リヨセル、テンセル): ユーカリなど木材パルプを原料に特殊な溶剤で溶かして作るセルロース系繊維は、石油由来の化学繊維より環境負荷が低いとされます。特にテンセル™(一般名リヨセル)は、原料にFSC®やPEFC™認証を受けた持続可能な森の木材を使用しており、その生産工程でも薬品の循環利用などにより水使用量や排水の低減が図られています。森林認証材から作られた繊維を使うことで、違法な森林伐採や貴重な生態系の破壊に加担しない仕組みが構築されています。繊維そのものも生分解性があり、廃棄後の環境負荷が小さい点も評価されています。

5.2 企業の取り組み

  • People Tree: フェアトレードで調達したオーガニックコットンを使用するなど、公正なサプライチェーン構築を推進。

  • ケリング(グッチ、サンローラン): 2030年までに原材料を100%持続可能なものに転換する計画を掲げる。

なお、古来から衣料や工芸で使われてきた天然染料にも、生物資源が深く関わっています。たとえば日本の伝統染色「藍染め(インディゴ)」はタデ科の藍草から色素を抽出しますし、鮮やかな赤色染料のコチニールはサボテンに付くエンジ虫(カイガラムシの一種)が原料です。これら自然が生み出す豊かな色彩は、化学染料が登場する以前は世界中で重宝され、衣類や工芸品に彩りを与えてきました。現代では藍染めや草木染めがサステナブルなファッションとして再評価され、環境への負荷が少ない天然染料ブランドも登場しています。自然由来の染料を適切に管理・栽培しつつ製品化することで、文化的・経済的資源としての価値を新たに創出する試みもなされています。

6. まとめ

生物多様性は医薬品から農業・水産業、アパレル、観光など、多岐にわたる産業の基盤であり、その存在がイノベーションを生む「生きた宝庫」となっています。しかし、もし過剰な採取や大規模開発によって生態系が劣化し、貴重な遺伝資源を失えば、将来のビジネスチャンスや人類の生活基盤自体が脅かされる可能性があります。

その危機感から、国際的な枠組みとして「生物多様性条約」(1992年)やその名古屋議定書(2010年採択、2014年発効)が定められました。名古屋議定書は、遺伝資源を利用する側(主に先進国の企業や研究機関)と、それらの資源が存在する提供国(多くは途上国)との間で、公正な利益配分を図ること(ABS: Access and Benefit-Sharing=利用と利益配分)を目的としています。つまり、企業や研究者が熱帯雨林や深海などから得た生物由来の素材・知見を製品化する際、その利益の一部を元の国や地域社会に還元しよう、という国際ルールです。これは、生物多様性の利用者に対する義務を明確にすることで、乱獲や「バイオパイラシー」(生物資源の違法・無許可利用)を防ぎ、資源提供国が自国の生物多様性を守るインセンティブを高める狙いがあります。

企業や研究機関が自然由来の素材や遺伝資源を利用する際には、こうした国際ルールを順守し、地域コミュニティの権利を尊重する姿勢が欠かせません。同時に、産業が自然から得られる恩恵を将来にわたって持続可能かつ公正な形で享受し続けるためには、ビジネスモデルや技術の革新、そして何より私たち一人ひとりの「自然を大切にする意識」が鍵となります。

「生物多様性」は、遠いジャングルや深海だけの話ではなく、私たちの暮らしとグローバル経済を支えるエンジンそのものです。食べること、治すこと、装うこと、楽しむこと――あらゆる営みの背景に生物多様性の存在があります。そのありがたさを再認識し、自然資本を賢く管理・利用していくことが、持続可能な社会の構築に不可欠と言えるでしょう。次回は、近年公表された各種データが示す生物多様性の危機的な現状に注目し、その深刻さと課題について見ていきましょう。


【出典・参考文献】


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